【大学生時代の読書暦】
(高校生時代からの続きです)
【SFとの出会い】
大学生になってからやっと暇な時間も増えてきたので、生活の大半を体育館と図書館ですごしました。小松左京に出会ったのはこの頃です。小松左京はTVもないチョー貧乏だったので、妻のために毎日少しづつ書いてあげたのが「日本アパッチ族」ですが、この『戦後焼け跡派』の作家は文系だったにもかかわらず、SFの巨匠として君臨していました。「お茶漬けの味」の先見性に驚き、「果しなき流れの果に」で運命の出会いとなりました。軽妙な語り口から深遠な哲学、最新の物理学理論を用いた小説まで馬力のあるSF群を書き続けている最中で、日本SF界を牽引している第一人者でした。人類の種としての限界を探った傑作「継ぐのは誰か」は、何度も読み返したものです。
このころからSFに傾倒し出して、その当時一世風靡したショートショートの名手である星新一、耽美派「百億の昼と千億の夜」の光瀬龍、笑激の作家の筒井康隆などなど日本のSF黄金期を堪能していました。これらの作家達とはその後も10年以上付き合うのですが、哲学や宗教などの雑多な知識に関しては、かなりの部分これらの作家から吸収しました。大学の教養課程よりはかなり役立った記憶があります。これらの作家の各作品について、書き出すとあまりにも思い入れがあるのでここでは省略します。
【いわゆる名作】
大学の図書館は高校とはスケールが桁違いなので、活字中毒にとっては天国のような場所でした。おそらく大学生時代が最も本を読んだ時期で、1週間で7冊程度読み込んでいました。
社会人の常識とされる大作家のいわゆる名作群は、それまでに通り一遍は読んでいましたが、あまりピンときませんでした。夏目漱石の「草枕」、芥川龍之介の「侏儒の言葉」なら好きですが、その他の有名作品をいくら読んでも気に入りませんでした。まして太宰治を読むくらいなら、稲垣足穂の「一千一秒物語」を読み直したい人でした。
これらのいわゆる名作といわれる物語は、その時代での価値観で選ばれた作品ですから、時代とともにその評価は再検討される必要があります。文学作品に何を求めるかでその選択基準は大きく異なってきますが、『教養』という言葉がすでに死語になっているのですから、今の時代に世間一般誰にでも共通の選択基準などあるとも思えません。芥川賞受賞作品が、およそつまらない文学作品ばかりなのを見れば、戦前から続く『文壇』の価値観がいかに偏った狭い世界の中にしか居ないことが分かると思います。
そういう意味で昔の人は、これらの一連の名作(数百冊程度?)を全部読んでさえいれば、とりあえず『教養人』の仲間に入れてもらえたのかもしれません。それに比べて今の時代は、どこまで知っていれば教養があることになるのか、見当もつきません。文学、医学、法学、工学、さらに物理学、情報科学、化学、・・・あまりにも細分化された学問の世界は、個々の狭い分野の中だけでも大量の情報が溢れ、既に一人の人間の頭脳では処理できなくなっています。世の中のすべての知識を習得できたのにまだ物足りないと嘆いていたダンテの時代がうらやましいと思います。
(社会人の時代に突入・・・)
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